卒業生からのメッセージ

 

J.M.キホロ教授(元KESTES奨学生/ケニア協同大学・応用統計学准教授)

KESTESとの出会いから今日まで

john

今年、KESTES発足 30 周年とケニア独立 50 周年が重なったことだけでなく、ジョモ・ケニヤッタ農工大学・上級講師からケニア協同大学・応用統計学准教授への私の昇進が重なったのも奇遇なことです。

振り返るといつも、謙虚な思いを抱きます。KESTESがもたらしてくれた影響はとても大きなものでした。 当時、物理の担当だった黒田孝伸先生(S59年度 3次隊・理数科教師)の推薦によって、私がKESTESの奨学生となってから実に 27 年が過ぎました。先生は個人的にも私の中等教育を支援してくれていましたが、それに加え、KESTESからの奨学金は大きな力となりました。
先生は、私が中等教育をきちんと終えられるよう尽力してくれました。1986 年、セカンダリー3 年目(高校 2 年生相当)のとき、KESTESの奨学生として私を推薦する前に、先生は私が1・2年生のときに払いきれなかった学費分を清算してくれました。それだけでなく、先生のボランティア任期は1987 年まででしたが、私が奨学金をその後もきちんと受け取れるよう手配してくれ、さらに4年生分の学費も前もって支払ってくれたのです。
こうしたことの恩恵は私だけでなく、私の周りにも明らかな影響をもたらしました。経済支援により、KESTESは天国への門を開いてくれました。

当時、私の父には、8人いる子どもたちの一人にだけでも教育を受けさせるような余裕はありませんでした。8人兄弟のうち、私は初等教育を修了した最初の子どもであり、それゆえに一番に教育面の困難に面することになったのです。私が 2 年生の 1、2 学期を終えた 3 学期の途中から、両親は親戚、役所、他の組織へ、また友人へ経済的支援をお願いして回ることとなり、それは彼らにとって大きな負担でした。そして 1986 年の 6 月に、私は泣く泣く学校を辞めざるを得ませんでした。
学校を辞めたあと、他の少年たちがやっていた不良行為に加わることもできましたが、その結果がどうなるかくらいは想像できました。私がすることにしたのは、今でいわれる、いわゆる児童労働です。食堂の料理人として働き始めましたが、給料はあいまいなものでした。月の終わりに支払いがあったかどうか、覚えていません。幸いなことに、先生はすでに私が彼の物理の授業を欠席していることに気づいていました。最初に先生は私のクラスメートのウィルソンを寄こし、両親と私と彼で三者面談をしたいと伝えてきました。料理人の仕事のため、私はそのとき家を離れて違う村にいましたが、先生に会うため、翌週すぐに家に帰りました。先生はバイクに乗って私の家に現れ、私と長い長い話をしたあと、私の通訳を通じて両親と話しました。先生は、私が学校へ戻れるよう手を尽くす、と約束してくれたのです。

その翌週、新たな気持ちで学校に戻りました。学期終わりに初めてクラスのリーダーになったような気持ちで、とても誇らしげでした(残りの学期には、1 年生から4年生までのまとめ役をすることになったのですが)。先生もとても喜んでくれ、すぐに私がKESTESの奨学金試験を受けられるよう手配してくれました。4 枚のテストを受けたことを覚えています――受験者の中で、数学で私が一番の成績だったことも。いま、私が数理統計学の権威といわれている理由がおわかりでしょう。この手続きは 1987 年に行われましたが、先生はシリアの首都、ダマスカスでの次の仕事へ移る前に、1988 年分の私の奨学金をきちんと手配していってくれました。
KESTESは中等学校3年生分の学費をすみやかに清算してくれ、もはや経済面での心配はなくなりました。先生がすでに4年生分の学費を払ってくれていたからです。当時の新教育システムへの移行により、4年生に合格することは同時に自動的に大学に上がれることを意味しました。驚いたことに、私は大学に上がれる 3,990 人のうちの一人だったのです。私はケニヤッタ大学に入学し、1995 年に主席で数学教育の学位を取りました。一年後、ケニヤッタ大学からの奨学金を受け、私は 1998年に数理統計学の修士号を取得しました。その後は 2000年に指導研究員としてジョモ・ケニヤッタ農工大学に入ったのち、2005 年には同大学にて、ドイツ学術交流会の奨学金を受けて数学博士号を取得することができました。

KESTESによる家族や地域への影響は、私の兄弟を見てもわかります。私の兄は経済的理由から初等教育を受けることは叶いませんでしたが、それは単に彼が年長だったからということだけで、運がなかったとしかいえません。私が大学に入ったとき、妹はちょうど中等学校に入ったばかりでした。奨学金を節約した少しばかりのお金と休日のアルバイトのお金で、妹の学費を払うことができました。これもKESTESのおかげです。かいつまんでいうと、KESTESと黒田先生に出会えたことで、貧しかったキホロ一家はこんなに成長することができました。

1. J.M.キホロ教授(私のことです)―― ケニア協同大学・応用統計学准教授
2014 年の 3 月から、正式に赴任予定。
2. メアリー.W.キホロ――エジャトン大学卒業、教員。教員組合とも協働。
3. アガサ.W.キホロ――KCA 大学卒業、商学部学士。公認会計士。
4. バシリオ.K.キホロ――ケニヤッタ大学卒業、教育学士。ケニア政府上級刑務官。

ここに挙げていない兄弟も、多大な恩恵を受けています。
いまや、みなさんにもおわかりでしょう。一個人への小さな投資と思われたことが、家族全体、そして社会へも、大きな変化をもたらしたことを。先生とKESTESは、直接的にも間接的にも、国家に利益を与えてくれたのです。
最後に、心からKESTESに感謝し、この投稿を終わりにしたいと思います。KESTESに出資されているみなさん、もし出資を辞めることなんてお考えになったら、ぜひこの事業がもたらす恩恵を今一度考えてみてください。
KESTESよ末永く、JOCV よ末永く。ありがとうございました。

 

希望をくれたKESTES
             Samba. W. Kennedy(元KESTES奨学生)

この寄稿を通じて、再びKESTESとの関わりを持てたことを大変嬉しく思います。思い返せばあの困難な日々のなか、僕の学問への意欲や将来への希望は、夢のまま消えてしまっていたかもしれません。KESTESは僕に、新しい希望に満ちた人生、そして学問への情熱をもたらしてくれました。

【最初の思い出】
あの日、日本人の男の人や女の人が学校にやってきたのを覚えています。そのあとすぐ、僕ともう一人の女の子が担任の先生に職員室へ呼ばれました。めったにない出来事に僕の胸は高鳴っていました。 短い自己紹介が済んだあと、僕たちは作文を書くように言われたのです。審査の結果、優秀だった人は奨学金が受けられるということでした。候補者のなかでの競争です。 作文を含めた審査の間に、博子と彼女の友達が僕の家に来て写真を撮っていったので、僕の家族や友達、村のみんなが僕のことを「日本の子」と意識するようになりました。

【支援】
KESTESがたくさん教科書をくれて、人生で初めて自分だけの教科書を持つことができました。教科書をもらったのはカカメガ(ケニア西部の地名)での面会のときだったと思います。新しい制服と靴までもらえて、大きく勇気づけられた僕は、テストで好成績を出して恩返しするぞと心に誓いました。ヒロコ※1は時々僕の様子を見に学校に訪ねてくれ、また先生たちも僕のサポートを積極的にしてくれ、KCSE※の受験を約束してくれました。
※1 小野博子さん(21 年度 3 次隊・村落開発普及員)
※2 Kenya Certificate of Secondary Education の略で、ケニアの全国統一中等教育修了試験。日本のセンター試験にあたる。

【希望復活】
滞納していた学費と、これからの分の学費が清算された日、それは僕にとって「希望復活の日」です。自分が KCSE を受けられるなんて想像もしませんでした。僕の家族には、とても受験費なんて出せませんでしたから。僕は大学に入るためだけでなく、KCSE で高得点を出すことを狙って勉強するようになりました。

【夢に向かって】
いま、僕は経済部商学コースの学位を取るための授業を受けています。僕の夢は生き続けています――いつか海外に留学し、もっと勉強を続けたい。そしてできれば、もうひとつの夢、パイロットになるための訓練を受けられたら。

【今後の願い】
KESTESのみなさんには、ぜひ、より多くの貧しい子どもや孤児の支援を、そしてできれば高等教育のレベルまで、広げていってほしいと願っています。たくさんの子どもたちがこの事業から恩恵を受けられるように、僕もいつか、自分のお金をKESTESの資金として提供できれば幸いです。
“KESTESよ末永く。あなたは希望、おなかを空かせた人への食べもの、渇いた人への水―― 祝福そのものです”

敬意を表して