OBからのメッセージ

菊地正明 OB(S63-2 隊理数科教師)

現 KESTES の運営委員のみなさま、活動 30周年、おめでとうございます。OB として、また微力ながら活動に協力している日本窓口のメンバーとして、大変嬉しく誇りに思います。

私がケニアにいた 1990 年頃は、理数科教師隊員が 50 人以上派遣されていた気がします。KESTES もその職種の隊員だけで運営していました。選考で喧々ごうごう議論したり、財政をどうするかアイディアを出し合ったり、また、KCSE の実験対策の情報共有も行っていました。恐らく、今も課題や悩むところは同じなのではないでしょうか。

最近の印象は、企画力が我々の頃と比べ向上しているなと感じています。例えば、奨学生との交流、イベントにおける募金活動、オリジナルグッズの制作など。”生徒たちへの情熱”や”楽しみながらやる”という姿勢は今も昔も変わらないと思いますが、工夫の凝らし方やアイディア、表現力がすばらしいと感服しています。

奨学生も延べ 500 人を超えたようですが、生徒たちは面倒を見てくれた隊員のことをどう思っているだろうか、と考えてしまいます。彼らがケニアの人材育成という理想に関与していなくても、一人ひとりが自分と隊員だけの物語をきっと持っているのでしょうから、それを大切にして人生を送ってくれていると嬉しいです。

これからもこの活動が永遠に続くことを祈っています。そのためにも、自分ができるサポートを続けていきたいと思います。委員のみなさん、そしてこれから協力隊に応募し、現地で委員として協力していただけるまだ見ぬみなさん、よろしくお願いいたします。

最後に、この活動に賛同し募金をしていただいた全てのみなさまに感謝申し上げます。

(追記)
今年の正月 23 年ぶりに任地へ行ってきました。当時 5 歳だった坊主(握手をしている手の下の子供)が立派な青年(黄色いつなぎ)になってトラクターの運転をしていました。隣の小学校の仲のよかった先生は教会を建て、代表になっていました。

「Masaaki!、Masaaki!」と名前を憶えてくれていたのには大感激。まさにうるるん旅行記です。残念だったのは一番親しくしていた生徒がマラリアで亡くなっていたこと。お母さんはまだ元気でしたが、住んでいた生徒の別棟はそのまま残っていて、泊まったことなどを思い出しつつ冥福を祈りました。みなさんも出会いを大切にして下さい。

黒田孝伸氏 (S59-3、理数科教師、現開発援助コンサルタント)

キホメ高校着任8か月後の1986年1月、まだ幼さの残るキホロ君達、新1年生を迎え、クラス担任となりました。キホロ君の突出した優秀さにはすぐに気づくと共に、2年生になり授業料未納による自宅待機で、彼の家の貧しさを知ることになりました。担任として看過できず、2年時の授業料は当方が負担し、3・4年時はKESTESを得て無事に高校を卒業しました。印象的だったのは校長や上級生や村人からのキホロ君への支援に対する当方への感謝の言葉でした。彼は誰もが誇る「キホメ村の宝」だったのです。

先日、久しぶりに電話で話しました。キホロ君は2007年にJKUATで博士号を取得し、現在数学、統計の講義を行う一方、JKUATが開講しているインターネットを活用した遠隔教育プログラムの管理責任者を 務めています。同プログラムは有料ですが、安価な費用でケニア内外の学生に学位取得の機会を与えているようです。更に MOOC (Massive Open Online Course)を無料で提供している米国の大学との連携を検討しているそうです。

かつて貧困を理由に教育機会を奪われかけた多くの優秀な青年たちを奨学金が支えました。そして、現在、インターネットにアクセスできれば、途上国の貧しい青年たちも世界最高水準の大学教育を「無料」で受講でき、成績優秀者には更なる可能性が広がっています。貧困の壁を越え、青年たちの潜在的可能性を拡大する遠隔教育プログラムに今後もキホロ君が関わっていく姿を遠くから応援したいと思っています。

竹尾敬三 OB (S52-3・稲作指導)

「おめーら!」、えっ?
私が当時住んでいたのは、ケニヤ西部、サウスニャンザ州のビクトリア湖に面したホマベイという町でした。1978 年の 4 月から 3 年間過ごしました。そこはルオー族という部族多く住むところで、「オメーラ」というのは、ルオー語で「私の友達」ということです。つまり、友人に呼びかけられたところだったのです。

現地赴任時には、私の住む家は準備されていなくて、アメリカンピースコーの住む家に今でいうルームシェアーをさせてもらいました。3LDK で彼ら 2 人と私の 3 人で住みました。3 か月位経ったある日、家に帰ってみると、自分の部屋の中の多くの物、ラジカセなどが紛失していました。泥棒にられたのです。そこで、近所の子供たちに「盗んだ人は絶対に見つかる。」「私の友人は警察のお偉いさんだ。」と言い広めてみました。すると2週間くらいしたある日、玄関の前に盗まれたものがきちんと揃えて置いてありました。もちろんラジカセも。なんと純情なのかと逆に驚いてしまいました。本当に戻ってくるとは思ってなかったのですから。
稲作の普及指導が主の仕事でした。町の近くのシャンバ(田圃)で稲作をしているところがあり、そこによく出かけました。友達もできたので、気楽に行ける場所でした。
2010 年 12 月に 30 年ぶりに同地を訪れました。
友達も元気だったし、驚いたことにお母さんも大変元気でした。いったい何歳になったのか?
今でもメールでつながっています。